金はすべてか?
金はすべてだろうか。
最近ではパパ活なんて言葉もよく耳にするようになった。
やっていた人も身近にいた。
その人いわく「金はすべて」なのだそうだ。
金がないと何もできない。幸せというものは何でも金で買えるらしい。
これは極論であろうが、確かに金はあったほうが良い。
おいしいご飯を食べたら幸せな気分になるが、金を払えば食べられるおいしいものの選択肢も上がる。
高いからちょっと叙々苑の肉はやめておこうとならずに叙々苑の肉をちょうど食べたいときにいつでも食べられるのだ。
大は小を兼ねるというものだ。
資本主義社会である今は仕方のないことかもしれない。
結婚もやはり金がないと無理だし、実際金持ちにたかる女性たちという光景は現実でもよく見る光景である。
しかし私はどうして人々は金が欲しいのか知りたい。
もちろん欲しくないわけではないのだ。資本主義社会から出ていきたいわけでもないのだ。金は欲しい。
ただ、金が全てであって、あればあるほどいい人は、いったい何のために金が欲しいのかということである。
もし金持ちと結婚したあなたはある日多額の借金を背負わされたら別れるか?
と先ほどの人に聞いてみたことがある。
離婚するそうである。
それでは何のための金だろうか?
人工物である金の、不思議で最も恐ろしいところは、満ち足りることがないことである。
例えば、もともとお金の役割を担っていた米についてみてみよう。
何故米が通貨として使われたのか。答えは腐らないからである、
腐らないし、絶対に必要なものなので共通の価値が発生するので米として蓄え、いろんなものに交換することができるのだ。
しかしながら、それにはいつか限度、というか絶対に過剰すぎてもう使いきれない
今の金は恐ろしい。ほぼ絶対に価値がなくなることはないし、絶対に腐らない。いくら持ってもデータ上の数字が増えるだけである。
このようにみると、金というのは絶対に満足しないのに、有限の人生という時間をこれに捧げているのである。
実に非合理的である。
漠然と金をため使いもせずに仕事だけしてる人も同じである。
金のために時間を使うが、本当にその時間はそのお金の価値はあっただろうか。
資本主義の金のシステムというのはこのような人たちがいるからこそ回っているのだ。
そう考えると、金が全ての人の人生というのは、言い換えれば金に生かされている人生であると言える。
人が便利に”分業”できるように作られた手段のためのシステムのはずなのに、それが目的化してしまっているのである。
人類の最強の発明である金システムをうまく使うか使われるか、どっちがいいだろうか。
何のためにどんなことをしてお金が欲しいだろうか。
お金こそがすべてだろうか。
何のために生きているのか。