浮気はしてはいけない

あくまでも個人的な意見であるが、

私は浮気をしないし、してはいけない。

少々荒っぽい表現であるがあえてこのように書いた。

世間では浮気をしないという男は大体浮気をすると言われるようである。

意味がわからない。

違うんだよなぁ、と思う。

正直人がなぜ浮気をしてしまうのか私には到底理解できない。

浮気をしてしまう人としない人には絶対に差があるからだ。

なぜ私が浮気をしないのか書こうと思う。

 

そもそも浮気という行為の定義の問題はあるが、定義についてあれこれ言いだしたところで単なる言葉遊びに過ぎなくなってしまうので、ここでは

①付き合っている、または結婚している二人の人間A、Bについて

②どちらかがA、B以外の第三者Cを

③人間的にあるいは恋愛的に好きになってしまう、あるいは肉体関係を持つことによって

④A、Bが精神的ショックを受ける

ことを浮気ということにする。したがって結婚した男女についても浮気という言葉を使うことにする。

「寝取られ」みたいなプレイを好む人も、別に私の元に戻ってくればいいという人も、ほかの人を好きになってもいいという人も精神的ショックを受けているわけではないので浮気とは言わないことにする。

というかこんなことをいちいち書かなくてもいいのだが、「私は浮気をされてもなんとも思わないからしてもいい」「浮気をされるほうが悪い」なんて的外れな意見がありそうだからだ。

この後を聞けば何故こういう例が的外れなのかわかるはずだが、簡単に言えばそもそも本質的な「浮気」と言うのは「浮気されると精神的ショックを受ける」社会に生きている人だけにしか論じる資格がないからである。

さっき言ったような人達がいう「浮気」は形式的なものなのでこういうのが単なる言葉遊びというのである。形式を見るのではなく本質を考えるために予めこのような例は排除しておく。

 

さて、世間では実に多くの人が浮気をする。

男は浮気の生き物だとか、浮気をしない人はいないなどという話はよく耳にするだろう。どこからが浮気?などと聞く人もいる。

ほとんどすべての場合において浮気に対して肯定的な意見を持つ人はいない。

浮気をした過去があったり、現在浮気をしている人というのは多くの場合嫌われるだろう。

恋愛において、一人の人を愛すべきで、浮気をしたものは「信用のできない人」として排除される。というのが現代の社会である。実際不貞行為は離婚事由になるしね。

 

さて、少し遠回りをしたが、ここで「付き合う」とは何か考えてみよう。

小学生同士で付き合ったりしているのを見て「付き合ってるっていって何するんだろう」と思うことはないだろうか。

でもこれは実際その通りなのだ。付き合うことの本質を考えるために最も純粋で考えやすい例だと思う。

実際付き合うって何だろうか。付き合ってるなんてお互いに確認しあわなくても、「付き合ってください」なんて言わなくても、お互いに愛し合っていればいいのではないだろうか。

付き合ったところで「お互いに好き」という気持ちがどう変わるわけでもない。

つまり、「あなたのことが好きです」「私も」。

これで本質的には十分じゃないか?

よく考えてみれば、法的拘束力があるわけでもあるまいし、わざわざ「付き合う」なんて形式をとっても取らなくても何も変わらないじゃないか!!

 

でも多くの人は付き合うという形式をとることを選択する。私だってそうだ。

じゃあなぜ、別に何も変わるわけでもないのに「付き合う」ことを選択するのか。

答えは単純である。相手を独占したいから、ただそれだけである。それ以外の意味はない。

しかし待ってくれ、なぜ「付き合う」ことで独占することになるのか。

別に付き合っていて浮気をしたところで、何か罰が与えられるわけではないよ?付き合うことで永遠に愛するようになるわけじゃないじゃん!

という疑問がわく。

付き合うことが独占を意味するのであれば、付き合った相手が自分のものであることを何かが保証してくれなければならない。いったい何が保証してくれるのか。

答えは「コミュニティ」である。

つまり、「周りにいるみんな」がそれを保証してくれているのだ。

私たちは恋人を独り占めにしたい。あなたがそう思ってもそう思わなくてもさっき”浮気している人は嫌われる”と書いたように愛する人がほかの人にも恋愛的な要素を見せるのはいやだ、と思う人が圧倒的多数なのだ。

つまり「付き合う」とは、自分の恋人が浮気をしないようにみんなが監視しあう、そういう社会に自ら入ることなのだ。

 

私たちは人間である。恋人以外を好きになってしまうことはあるかもしれない。

でも、この社会のメンバーである間はそれは許されない。

例えば「人を殺したい」と「思ってしまう」ことは規制できない。どうしようもないのだ。

だけど、実際に人を殺したら刑務所に入れられ、自由が奪われる。

からしないのだ。

こういう社会にいるから、自分の身は安全だけど、人は殺せない。

でも、人は殺せないというデメリットよりも圧倒的に自分の身が安全なメリットのほうが上だから、みんながこういうルールのもとに暮らしているのだ。

付き合うというのはこれと同じ構図だ。

つまり、恋人を独り占めにするメリットが、ほかの人を愛せないデメリットよりも圧倒的に大きいから、だから付き合うことを選択し、みんなに監視してもらうのだ。

だから浮気をするとこの社会システムの中にいるみんなから徹底的に排除される。嫌われる。そうすることでこの社会システムが維持されている。

みんなが小さなデメリットを出し合うことで、みんなが大きなメリットを得られるようにしている。

浮気をすると批判されるのはこういうことである。

 

こうなると話は単純である。

ほかの人も愛したいのであればそもそも付き合うという相互監視社会に入らなければいいのだ。

というか、付き合うという形式を”わざわざ”選択するということは、浮気ができないという約束を絶対にしなければならない。

 

ものすごく簡単な理屈である。

この社会に自ら入った以上、「恋人を独り占めできる」というメリットだけもらって自分は浮気をするというのは許されないのだ。

ほかの人を愛するためには、付き合っているという状態を解消してからでないといけない。

これは自ら選択したことだ。

 

つまり、複数の人を愛すのがいけないわけではない。人それぞれ恋愛の形はあってもいい。だけど「付き合っているなら」それはいけない。

付き合わないと愛し合ってはいけないなんて誰も決めていない。付き合っていないと出来ないことなんてものもない。

 

ほかの人が気になりそうなら別れなければならない。

こういうことで私は浮気をしないし、したこともない。

付き合うことを自ら選択したのだから浮気をしないなんて当たり前の話である。

付き合っているくせに浮気をする人は自分で選んだ服なのに誰がこの服を買わせたと言っているのと同じだ。

 

これが「付き合う」ということである。

浮気をする人は、付き合う重みを理解していない。

どう考えているのかわからないが、恐らく付き合うとは何か考えたこともないのだろう。付き合っても付き合わなくてもお互い好きという気持ちは変わらないのに、なぜわざわざ「付き合う」なんて形式をとるのか。

もし本当に付き合うことに何の意味もなければなぜ付き合うのか。

浮気をしない人は絶対にしない。そもそも付き合うことがどういうことか分かっているからだ。

 

これでもまだ浮気は仕方がないとか、人それぞれだという人に問う。

じゃあなぜ、あなたはわざわざ「付き合う」のか。

 

浮気をする人にはぜひ考えてもらいたい。

論理の罠ー不倫、浮気肯定派

最近アンジャッシュの渡部健の不倫報道が話題となっている。

それに関して多くの批判がある中、「渡部健は悪くない」などという反対意見もある。

もちろん民法によって不貞行為は悪いことだとされているが、法律は所詮法律であって変わるかもしれない。純粋に本質的なものを考えるために、今回は法律については取り上げないことにする。

 

不倫、浮気肯定派の人は以下のような論理を展開して「浮気は悪くない、仕方のないものだ」と言い張る。

 

①自分はされてもいいから。心が自分にあればいい。

②バレなければそれはもう浮気ではないので、ばれない限りはしてもいい。

③セックスなどをしても避妊もするし迷惑をかけないので、迷惑をかけない限りしてもいい。

④男というものはみな性欲が強い、よって浮気は仕方がない。

まだまだあるが多く耳にするのはこのような論理で浮気は仕方がないことだと言う。

 

果たしてそれは本当なのだろうか。

結論から言えば、間違っていると結論付けることはできない。しかし論理的に間違っているのは明白だ。となる。

 

この記事では論理構造だけを見ることにし、筆者の浮気論は別記事で扱うことにする。

 

論理学において詭弁、という言葉がある。

Wikipediaによると以下のようなものである。

「故意に行われる虚偽の議論」「道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論、論理学で外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法」「実質において論理上虚偽あるいは誤謬でありながら、故意に誤りのある論理展開を用いて、間違った命題を正しいかのように装い、思考の混乱や欺瞞を目的としておこなう謬論」を指す。

 要するに「だますためにあたかも正しいと思い込ませる論法」である。

人は論理的に正当だと思われることを言われると何も言い返す手段がなくなってしまうので、深く考えなければ「詭弁」に対して納得し、支持してしまう危険性がある。

先述したこれらはすべて詭弁である。

後から述べるが、この論法を使う人に騙されてはいけない。

この論法を故意に使う人は、「浮気は仕方ない」と証明するのではなくただ”思い込ませようと”しているのだ。

 

さて、ではこれらの論法がなぜ誤りなのか見ていこう。

 

1.前件否定の虚偽

前件否定の虚偽の例とはまさに①で上げたようなものである。

A「自分がされて嫌なこと(①では浮気)は人にもしてはいけない。」

B「なら自分がされてもいいならしてもいいんだな」

 この構造は単純化すると以下のようになる。

もし P ならば、Q である。

いま、P ではない。

従って、Q ではない。

 この論法は多くの場合成り立たない。

仮に成り立つとしたらPとQが同値(必要十分条件)である時のみである。

これがどういうことかという例を挙げる。

P = 処方箋がある として

Q = 処方箋医薬品をもらえる とすると

例えば処方箋があれば処方箋が必要な医薬品をもらえる。(P→Q)

反対に処方箋が必要な医薬品であれば処方箋がないともらえない。(Q→P)

この二つが同時に成り立っているので、例えば

もし処方箋があるならば、処方箋医薬品がもらえる。

いま、処方箋がない。

したがって、処方箋医薬品はもらえない。

 は成り立つ。逆に言えばこれ以外は成り立たない。

数学的に言えば(興味のない方は読み飛ばしてもらって構わない)浮気の例はPがQであるための十分条件に過ぎないからである。

 

いま、自分がされていやなこと、が人にしてはいけない事。となっている。

仮に自分がされてもいいなら浮気をしてもいいという論理が成り立つと仮定すると、これが成り立つには

人にしてはいけない事、は自分がされていやなこと、のみ。という条件が成り立たなければならない。

つまり、もし殺人をされてもいいとある人が思っているなら、その人の住んでいる世界は「殺人をしてもいい」というルールになっていなければならない、ということである。

 

どれだけこの論法が現実離れした論法かご理解いただけただろうか。

 

 

2.未知論証

未知論証とは「前提がこれまで偽と証明されていないことを根拠に真であることを主張する、あるいは前提が真と証明されていないことを根拠に偽であることを主張する」論法である。これも論理学における詭弁である。つまり論理的ではないということを意味する。

難しいので以下の例を見てほしい。

例えば②の例を見てみよう。

 

バレなければそれはもう浮気ではないので、ばれない限りはしてもいい。

 

これをより構造的に単純化してみよう

 

不貞行為が観測されていないので、浮気をしたと言えない。

したがって浮気をしてもいい。

 さらに

P = 不貞行為の観測

Q = 浮気をしていい

とすると

Pが未知の状態なのでQは正しい。

という構造になる。

ここまでくれば論理的におかしいことがわかるだろう。

PならばQが普遍のものとして定義されていないのにそれを結果としている。

例えばこの構造でこんな例も作ることができる

宇宙の果てはわからないので、果てなんてものはない。

 

3.論点先取の虚偽

論点先取の虚偽とは「起点または原則を当然と見なすこと」である。

③について単純化してみよう。

浮気しても迷惑をかけないので、迷惑をかけない限りしてもいい。

さらに

P = 迷惑をかけない

Q = 浮気をしてもいい

とすると

PならばQとすると

Pが正しいとき、Qが成り立つ

 これは一見正しいように思われる。非常に論理的だ。

どこが間違っているのだろうか。

論点先取という言葉を思い出してほしい。

”論点”を”先取”しているのだ。

つまりどういうことかというと、いま問題にしている論点を正しいものだと先に”定義”しておいてから論を展開しているのである。

以下の例がわかりやすい。

もしBさんという人が仕事を怠けていて、それについて話している場面で以下のようにAさんが言ったとする。

A「Bさんは勤勉な人だから、仕事を怠けるはずがないよ。」

論理上は正しいが、いま”論じている”のは"Bさんが勤勉かどうか"なのに「Bさんは勤勉である」と仮定してから話しているのだ。

 

だから、本当は「Bさんが勤勉」である証明にはそもそもなっていない。

 

4.多数論証(バンドワゴン効果)

これは名前からも明らかだ、説明するまでもないかもしれない。

Xは多数派である。多数派は正しい。故にXは正しい

 見ただけでも間違いの三段論法だとわかる。

多数派が正しいという根拠がどこにもないからだ。

しかしなぜ人は多数派に惹かれるのだろうか。

これがバンドワゴン効果である。

Wikipediaによると

ある選択肢を多数が選択している現象が、その選択肢を選択する者を更に増大させる効果。

 とある。

要するに、多数派の意見というものに反対するより賛成したほうが不利益を被らないためその説明に納得したり、多数派の商品を買ったりしてしまうということである。

 

5.まとめ

さて、ここまで見てきたように、すべて論理的な誤りが多く含まれていた。

しかし早まってはいけない。

もう一つだけ紹介したい。

循環論証

循環論証とは論点先取の中でも、「前提が結論の根拠となり、結論が前提の根拠となる」という形式の推論である。

どういうことか。

 

例えば今まで見た意見はすべて詭弁だった。

私が「浮気不倫肯定論者の言っている事は詭弁だ(屁理屈だ・揚げ足取りだ)。だから間違っている。」

といったとしよう。

 

これが「循環論証」という詭弁なのだ。

 

早まってはいけない。

ここでは浮気不倫肯定論者の詭弁を紹介した。浮気不倫肯定論者の言っている論理は間違っているといっただけで、やっぱり浮気はいけないものだ!と結論付けたわけではない。

ただ、間違っている論理はやはり間違っている。

簡単に人の意見に共感してはいけないということを伝える記事である。

自分と異なる意見を頭ごなしに否定しろといっているわけではない。

ただ、批判的に物事を見る目も必要だということである。

次の記事で、なぜ浮気はしてはいけないのか、筆者の解釈を述べようと思う。

社会を変えた化合物ーエフェドリン

エフェドリンをご存じだろうか。マオウという植物から取り出された化合物である。

まずは構造式を見てほしい。ついでだが、覚せい剤であるアンフェタミンメタンフェタミンの構造も示しておく。

のちに話すことになるが、このエフェドリンは医薬品としても、覚せい剤原料としても使われることになる。

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上から、アンフェタミンメタンフェタミンエフェドリン

エフェドリンは1885 年,日本人長井長義によって マオウから抽出され、現代も広く使われている。例えば薬局に行くとマオウを含む生薬やdl-メチルエフェドリンといったものが含まれている。

エフェドリンの歴史は3000年以上にわたると推測されている。

エフェドリンの効能は、例えば運動機能の強化、麻酔、やせ薬、咳止め、集中力の増加、疲れを感じなくなる、不眠などである。

 

さらっと書いたが、この薬は眠らず集中力も増加し、疲れも感じない。さらに肉体を使う競技においてもドーピングとなる。痩せた美しいボディを手に入れたい女性も簡単に痩せることができる。

 

つまり、肉体的な人も知性的な人も芸能的な人もエフェドリンで”ドーピング”できてしまったのだ。

 

1970年台、このエフェドリンの交感神経刺激作用が運動能力を高めることから、ドーピングとしてスポーツ界で使われるようになった。これにより協議の公平性が失われ。今ではドーピング検査が行われ、エフェドリンの構造を検出する検査が行われる。先述したように、普通の風邪薬にも含まれるので「スポーツ選手は風邪薬が飲めない」といわれるのはこの理由による。

 

1980年台から、新たなエフェドリンの使用方法として「やせ薬」が急速に広まる。

エフェドリンには副作用があり、それが「食欲不振」だったのである。

薬物において、本当の「副作用」は存在しない。我々にとって利用した結果いいと思われないものが副作用と呼ばれる。

この例は、「副作用」を「作用」として利用した例である。

 

エフェドリンの交感神経刺激で、代謝が上がり、消化器系は抑制されることによって痩せるのである。

これは、突然死が多発したことによって法的な規制をされるようになり、収束した。

 

ここで、1893年メタンフェタミンが長井永義によって合成される。

エフェドリンの抽出も長井永義だったが、長井永義は純粋に化学的な面しか見ていなかったため、この化合物が恐ろしいものであり、その後規制されるとは考えていなかったであろう。

 

この化合物こそ、いわゆる「覚せい剤」であった。

メタンフェタミンドパミンノルアドレナリンのような神経伝達物質の放出を促進するので、覚醒作用があり、多幸感を感じる。

放出されたドパミンノルアドレナリンは100%元に戻り再利用されるわけではないので使えば使うほど枯渇していく。

そのため覚せい剤依存は不幸な結果しか生まないのであるが、ドパミン放出による気持ちよさは圧倒的で、一度使ったらその味を一生忘れることはないともいわれる。

 

このメタンフェタミンを作るのにエフェドリンが使われたため、エフェドリン覚せい剤原料として規制され、風邪薬にもdl-メチルエフェドリンのような覚せい剤に変換しにくい化合物が使われるのである。

 

このエフェドリンメタンフェタミンのような「似た化合物が似た薬理作用を示す」という法則性が、のちの「カチノン系化合物」のようなデザイナーズドラッグを生み、今の違法薬物市場が形成されたのである。

 

人類はエフェドリンの発見によって、人々の行動原理を理解することになり、また人がどのようにものを見て考えているのかという脳科学における薬物的なアプローチという手法も生み出すことになるのだった。

 

この辺りは別の記事で書こうと思う。

金はすべてか?

金はすべてだろうか。

最近ではパパ活なんて言葉もよく耳にするようになった。

やっていた人も身近にいた。

その人いわく「金はすべて」なのだそうだ。

金がないと何もできない。幸せというものは何でも金で買えるらしい。

 

これは極論であろうが、確かに金はあったほうが良い。

おいしいご飯を食べたら幸せな気分になるが、金を払えば食べられるおいしいものの選択肢も上がる。

高いからちょっと叙々苑の肉はやめておこうとならずに叙々苑の肉をちょうど食べたいときにいつでも食べられるのだ。

大は小を兼ねるというものだ。

 

資本主義社会である今は仕方のないことかもしれない。

結婚もやはり金がないと無理だし、実際金持ちにたかる女性たちという光景は現実でもよく見る光景である。

 

しかし私はどうして人々は金が欲しいのか知りたい。

もちろん欲しくないわけではないのだ。資本主義社会から出ていきたいわけでもないのだ。金は欲しい。

ただ、金が全てであって、あればあるほどいい人は、いったい何のために金が欲しいのかということである。

 

もし金持ちと結婚したあなたはある日多額の借金を背負わされたら別れるか?

と先ほどの人に聞いてみたことがある。

離婚するそうである。

 

それでは何のための金だろうか?

 

人工物である金の、不思議で最も恐ろしいところは、満ち足りることがないことである。

例えば、もともとお金の役割を担っていた米についてみてみよう。

何故米が通貨として使われたのか。答えは腐らないからである、

腐らないし、絶対に必要なものなので共通の価値が発生するので米として蓄え、いろんなものに交換することができるのだ。

しかしながら、それにはいつか限度、というか絶対に過剰すぎてもう使いきれない

 

今の金は恐ろしい。ほぼ絶対に価値がなくなることはないし、絶対に腐らない。いくら持ってもデータ上の数字が増えるだけである。

 

このようにみると、金というのは絶対に満足しないのに、有限の人生という時間をこれに捧げているのである。

実に非合理的である。

 

漠然と金をため使いもせずに仕事だけしてる人も同じである。

金のために時間を使うが、本当にその時間はそのお金の価値はあっただろうか。

資本主義の金のシステムというのはこのような人たちがいるからこそ回っているのだ。

 

そう考えると、金が全ての人の人生というのは、言い換えれば金に生かされている人生であると言える。

 

人が便利に”分業”できるように作られた手段のためのシステムのはずなのに、それが目的化してしまっているのである。

 

人類の最強の発明である金システムをうまく使うか使われるか、どっちがいいだろうか。

 

何のためにどんなことをしてお金が欲しいだろうか。

お金こそがすべてだろうか。

何のために生きているのか。

 

有機化学という化学のアート

タイトルを見てきてくださった方は恐らく変態である。

私は有機化学が好きで、有機化学を大学でやっている。

自己紹介で「有機化学が好きです」といっても誰もそれに触れようとしなかったり、よくわからないと言われたり、へーという無関心な返事で終わる。

なので変態である。間違いない。

 

さて、私は有機化学こそ科学のアートと呼ぶのにふさわしいと思っている。

 構造式を見たことがあるだろうか。炭素と水素に少量の窒素や酸素、ごくわずかのほかの元素だけのシンプルな材料の化学である。

以下のようなものである。

 

 

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構造式

これはジアゼパムという化合物で抗不安薬として用いられている歴史の古い薬物である。見ればわかる人にはわかるが、美しい。芸術である。

この形の物質が、日々の虚無感の森に迷い、絶望に暮れている者たちを出口にいざなうのである。なんとも美しい。

 

ちなみに、以下の構造式を見てほしい。

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ベンゾジアゼピン

上の構造式とほぼ同じである。この「R」の部分は側鎖といい、様々なものが引っ付く。この基本骨格を持つものをベンゾジアゼピン系の化合物という。
側鎖をいじれば作用の強さや用途別で効果を変えることができる。

これも有機化学の面白いところで、同じような構造は同じようなふるまいをするがちょっと違うため、無限にいろいろ作り出せるのだ。

 

さて、ベンゾジアゼピン抗不安薬として知られている。

ベンゾジアゼピンは抗不安作用を持つ薬物で革命的な化合物であった。

うつ病というのは昔からあるが、昔はバルビツール酸系と呼ばれる鎮静剤を使っていた。一応バルビツール酸の構造式を示しておく。

 

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バルビツール酸

この構造式をちょっといじくったやつは鎮静剤として使うことができ、麻酔薬や睡眠薬としても使えた。さらに不安もなくなったのであった。

不安がなくなるので、うつの人が飲んでいたわけだが、当然眠くなってしまうという副作用があったが、”不安”というのは脳が興奮しているからで、そりゃそれを鎮めるんだから眠くなるのは当然だという風潮があった。

 

さて、ここでベンゾジアゼピンが登場してくるのだ。

ベンゾジアゼピンは眠気を感じることなく不安のみ軽減することができた。

これが何を意味するかというとただ副作用がないだけではない。

「不安」と「眠気」は別の脳科学的メカニズムであることが分かったのだ。

 

このような「歴史」が一つの構造式の中にあるのだ。

たった炭素や水素、窒素酸素の組み合わせの中に、こんなドラマがあるのだ。

これはもう芸術ではないか。

そう思う人は?

 

 

 

ウイルスはすべて敵なのか

最近コロナウイルスが流行っている、といっても沈静化してきたのかどうか知らないが最近は緊急事態宣言も解除されたりして”流行っていた”というべきかもしれない。

 

多くの人々は「ウイルス=敵」の構図があり、ウイルスというものは我々人類の敵であると無条件に思っているように見える。

もちろん人を殺してしまったり苦痛を与えるコロナウイルスのようなウイルスは敵というべきだろうが、すべてではない。少し学のある人なら当たり前の話だが、知らない人が多く思えたため一応言っておく。

菌=敵の構図を持っている人はめったに見ない。ヨーグルトや納豆など生活に溶け込みすぎてあるからなのだろうが、ウイルスにおいてはことさらに「人類VSウイルス」とかいう過剰な表現がよく用いられ不思議である。

この記事を読めば、ウイルスと人間は基本的には共生関係であるという構図に変わるだろう。

そう変わっていただけることを望む。

 

さて、実は知られてないだけでむしろ菌くらいウイルスも身近なのである。

身近と言うか、もしウイルスがいなければ私たちは生まれてきていない。

実はウイルスの作ったゆりかごの中で私たちは成長して来たのだ。

 

私たちは父親と母親から生まれている。

母親に父親の精子を渡し、受精卵を母親のおなかの中で育てる。

この時注意してほしいのが、この「子供」は母親にとっては半分他人であることである。

我々には免疫システムという素晴らしいシステムがある。

つまり、自分自身以外は徹底的に排除しようとするのである。

そうなると、母親の遺伝子を半分しか持っていない子供は他人とみなされ、排除されてしまう。当たり前の話だ。

しかし実際はそうはならない。哺乳動物には”胎盤”があり、この胎盤を仲介して物質の交換を行うことによって、母体と子供とは言ってみれば”切り離されて”育てられるのだ。

 

しかし、自分じゃないものと物質交換をするには特別な膜を使わなければならない。

明らかにその膜はあるのに、なんでそれができるのかは2000年くらいのごく最近までわかっておらず、人体の不思議とされてきた。

 

実はこの胎盤を作っているのは「内在性レトロウイルス」というウイルス遺伝子だったのだ。なーんだ遺伝子であってウイルスではないじゃん。と言われそうだが、この内在性レトロウイルスは過去に感染したウイルスで、このウイルス遺伝子が元の遺伝子に取り込まれることによってこれらの機能を果たしている。

 

この内在性レトロウイルスは人のゲノムの8%も存在して、さらに判明しているだけでも我々人間の34%のDNAはウイルス由来なのだ。

 

現在では、生物の進化においてウイルス感染は原動力の一つとされている。

我々についていえば、哺乳動物の誕生は外からのレトロウイルスの感染が原動力となったと言える。

 

これだけでウイルスをいいやつだというな!という反論がありそうだが、病原性大腸菌O157の発生や、攻撃するミツバチの誕生もウイルス感染によるものだとわかっている。

 

進化というのはウイルスだけじゃなく様々な要因がある。そういう要因の積み重ねによる種の誕生、そこから絶滅したりしなかったり…などを経て我々がここに存在するのである。

 

大げさに言えば、ウイルス感染無くして我々は次に進めないのだ。

 

ウイルスの炭素量は75億トン、人間の炭素量はたったの4億トンで、世の中には信じられないほど大量のウイルスが存在する。

ウイルスはその数の多さによって感染し、新しい遺伝情報を持ったウイルスを作り、増やす。

我々はこの数から逃れられない(新薬を作ってもウイルスの量はけた違いなので必ず突然変異が起こる)から、ウイルスと共生しなければどうにもならないのだ。

 

ウイルスと生物の共生関係は5000万年とかよりももっと前からの歴史であって奥が深い。

もし、「新人類」が生まれるとしたら人工知能によるものなのか、それともウイルス?

 

好きってなんだ

誰かに恋愛感情を抱いたことのない人はどれほどいるだろうか。

全くではないはずだが、ほとんどの人は誰かを好きになってしまう。

 なぜだろう。

 

自分自身他人に興味がないと思う。

人の涙に共感して涙を流したり、困っている人を見て助けたいと思うこともない。

友達なんてものはいないし、数少ない、「恋人家族以外であり、知り合っていて連絡を取ろうと思えばとれる関係(いわゆる友達という存在なのだろうか)」の人はいても自分の利益になる場合のみ連絡をする気がする。

詐欺だってなにも思わずできる。そんな人間である。

自分はこんな性格がひどく嫌いであるが、そのことは関係ない。

でも、本当に完全にこんな人間なら好きな人なんていないだろう。

不思議なことに好きな人ができてしまうのである。

この人の為ならば不利益を被ってもいいと思ってしまうのだ。

なんとも不思議だ。

 

なぜ、「好き」という感情を抱いてしまうのか。

そしてなぜこの感情が必要なのか。

「好きな人」のことを「好き」たらしめるものは何なのだろうか。

いったい「好き」である状態とはどういう状態なのだろうか。

 

こんな疑問を誰に問いかけても満足のいく結論は得られないだろう。

結論的なものを出したとしてもいろんな疑問がわき出し止まらないはずだ。

せいぜい私が聞かれたら答えるのは「子孫繁栄のために好きになるのだ」というところだろうが、なぜ子孫は繁栄しなければならないのか、とか、繁殖可能なほかの異性でもいいのになぜ「好きな人」を好きになるのかなどについて何も答えてはくれない。

 

ただ、量子論における多世界解釈的な”たまたま”なのだろうか。

私の「好きな人」が「好きな人」であったのはただの結果の一つで、本当は「ほかの人を好きになっていた」可能性もあったのだろうか。

※量子の世界(この世界を作る元となるめちゃめちゃ小さいモノの振る舞いを研究する分野)ではいろいろな状態が”重なって”存在し、観測された時点でその確率は”収縮”すると言って、一つの状態に決まる。つまり、生きている自分と死んでいる自分ってものは存在するが、観測された瞬間どちらかに”収縮”する。という

 

「好き」でいる状態というのは非常に苦しい状態である。

もし創造主がいるのだとしたら問いたい。

 

なぜ「僕」は、「僕」でなければいけなかったの?